院長紹介

プロフィール

院長 <院長名>
血液型 O型
星座 おとめ座
趣味 筋トレ、ジョギング、家族旅行
今年の目標 ・研修会に10回参加する
・東京マラソン5時間以内で完走する
・ホノルルマラソン5時間以内で完走する
・体脂肪率を15%にする

略歴

平成5年3月 明海大学歯学部卒業
平成5年4月 歯科医師国家試験合格
平成5年4月 早乙女歯科医院勤務(横浜市)
平成7年9月 菅原歯科医院勤務(草加市)
平成8年9月 伊藤歯科医院勤務(さいたま市)
平成9年10月 五十嵐歯科医院開設
平成19年8月 新潟大学 医歯学総合研究科博士課程修了
平成28年 現在に至る

所属学会等

(社)日本口腔インプラント学会
国際歯周内科学研究会
国際審美学会
新潟再生歯学研究会
新潟大学歯科医師臨床研修指導医
ほんだ歯科 口臭外来 提携クリニック
公益社団法人 日本矯正歯科学会
一般社団法人 日本小児歯科学会
特定非営利活動法人 日本歯周病学会
日本歯科審美学会
ICOI(International Congress of Oral Implantologists)
ISOI(国際口腔インプラント学会)

院長の歯科医師になるまでをご紹介

幼少期
1967年9月22日
歯科技工所を営む新潟県新発田市出身の父と父の仕事を手伝う鶴岡市出身の母の第一子として生まれました。その頃私達は借家に住んでいたそうでその借家で父が歯科技工所をしていました。

私が生まれたことを知った父は大変喜びこれから子供のを育てるという責任の重さを感じたそうです。歯科技工という仕事は歯科医院で型取りしたしたものに石膏を注ぎ硬くなったらそれを取り出しきれいにし詰め物や被せ物、取り外しの入れば等を作る仕事です。

私が物心ついた時に父と母は朝は5時から夜は12時過ぎまで毎日毎日来る日も来る日も日曜日も祭日も大晦日も正月も机にすわりさらに時々徹夜をし技工の仕事をしていました。

その頃父も母も若く日本も高度成長に入りまた歯科医院に患者様が溢れかえり歯科技工の仕事量も多く意欲を持って仕事をしていたのだと思います。 4歳まで1日の大半を父と母の仕事場で過ごしました。

4歳からは幼稚園に通い始めました。今まで一緒にいてくれた父も母も幼稚園には付いて来てくれません。幼稚園まで近所の友達2~3人でバスで通いました。今のような幼稚園バスではなく庄内交通の定期バスです。

千石町に南停留所というのありそこまで歩いて行き10分くらいバスにのり幼稚園の近くのバスの停留所で降ります。そこからまた歩いて幼稚園に行きます。 結構元気な幼稚園時代を過ごしました。

小学生時代
小学校入学後の最初のクラスは1年5組で女性の先生でした。その先生はテニスが趣味でしばくするとアキレス腱を切って学校を休むようになりました。アキレス腱という言葉を聞いたのがそれが始めてで代わりに来てくれた先生が運動前は柔軟体操をしてアキレス腱を良く延ばすようにと教えてくれました。

今でも運動前のストレッチをするとこのエピソードを思い出しアキレス腱は良く延ばすようにしています。2年生では1組でした。クラス替えがあり1年の時と違った顔ぶれで新鮮でした。

担任の先生は同じく女性で大変厳しかったのを覚えています。3年生ではクラス替えはなく同じく1組でしたが担任の先生が代わりました。初めての男の先生です。自宅に陶芸用の釜がある先生で授業で焼き物をした時には売っている茶碗のような物を作っていました。

4年生の時は3組でクラス替えがあり担任の先生も代わりました。そのクラスは卒業するまでクラス替えもなく担任の先生も3年間同じでした。その先生は毎朝の朝礼でいろんなお話をしてくださいました。

くしゃみをすると唾がどのくらい飛ぶとか、体育館のアスベストは危険だとか鶴岡南高校に入るには今どんな勉強をしなければならないとか・・・・・・3年間にその先生から聞いた話は今でも思い出す事が多く自分の知識の一部になっていると感じます。

学校から帰ると友達と遊ばない日は技工所に行き父や従業員さんの歯を作る作業を見ていたり従業員さんとおしゃべりするのが日課でした。帰宅した従業員さんの机で学校の宿題をやり難しい問題があると父や残業で残っている従業員さんに聞いたりしました。勉強では算数、図工、理科が得意でした。その頃自分には理系が向いているなと思い始めました。

中学時代
中学1年生の時は8組になりました。担任は女性で体育の教師でとてもきれいなそれでいてとても厳しい先生でした。中学に入ると勉強が難しくなるぞとは言われていましたがやはりとても難しくなりました。

毎日夜7時から10時まで宿題や予習復習をやりました。2年生では1組になりました。担任は男性で数学教師。この先生もとても厳しい先生で毎日怒っている先生でしたが少しユニークでいつも学校内を裸足で歩いていました。

数学の教え方も独特で教科書はほとんど使わずその先生が用意したプリントをもとに授業がすすめられ授業のたびにいろいろな小道具を持ってきてとても楽しい授業だったのを覚えています。

3年生では8組で美術の女性の先生でした。その先生からは絵画の授業の時に筆の使い方で褒められてうれしかったのを覚えています。先生は私の歯科医院に通って頂いていて3ヶ月に一度定期健診の時に元気なお顔を拝見しております。

部活は軟式テニス部に入りました。放課後にテニスコートに行き準備運動や走り込みをし2人一組のペアになりボールを打ち合います。顧問の先生がいて部長がいて3年生がいて2年生がいて同級生がいる。

やさしい先輩、厳しい先輩、私より上手な同級生、私より下手な同級生、退部する同級生。そこでは部という組織の事を学びました。

高校時代
高校は酒田の私立に行きました。その学校は大学進学に力を入れていて先生方もかなり厳しい先生が多かったのではないでしょうか。そこでは一生の友達や先輩が出来ました。私が入学した時に3年生だった先輩は1年間しか一緒にいなかったにも関わらず今でも大変仲良くして頂いております。

高校3年になり卒業後の進路を決める時期になりました。漠然と父の背中をみて歯科技工士に憧れ、尊敬の念を抱き父の後を継ぐのかな?と考えていたのですが父と同じ歯科技工士も良いが歯科医師という職業も直接患者様に接しその方の人生にも関わる尊い仕事でもあり、しかも困っている人達に役立ちなかなかやりがいがありそうだなと感じたのが歯科医師を目指すきっかけです。

勤務医時代
勤務医時代は朝から夜まで次から次へと患者様の治療に明け暮れ家に帰ると疲れて服のまま寝てしまうような生活を5年ほど経験しました。

五十嵐医院開業へ
いざ開業しようと思い開業資金を計算すると8000万円ほど必要な事がわかりました。当時29歳でした。

そこで開業資金を貸してもらいに銀行を訪ねました。自分には歯科医院経営と歯科治療の自信があったので銀行もすぐ開業資金を貸してくれるだろう思いました。最初に地元に本店がある地元の大手銀行に行きました。

担当者が出てきて詳しくお話を聞いてくれとりあえず返事を待つことに。後日返ってきた返事は融資が出来ないとの事。ではと言う事で今度は県内に本店がある地元に支店がある銀行に行ってみました。そこでも担当者が熱心に話を聞いてくれ後日返事を頂く事に。

しばらく待っていると融資出来ないとの事。2件の銀行に断られ開業は無理かなと考え始めました。もう1件に申し込んでだめだったら開業は延期し2~3年準備し再チャレンジだなと思いながら最後の銀行に行ってみました。2件も断られたので最初の勢いはありません。

どうせだめだろうとなかばあきらめながらの申し込みでした。後日連絡をもらうことに。しばらく返事をまっていると今までとは少し違う雰囲気に。色々な書類を求められ融資してくれるのかなと淡い期待がありました。

しばらくすると融資してくれると連絡が入り早速打ち合わせに銀行に伺いました。どうやら融資してくれるそうなのですが8000万円必要なところ融資できるのは6000万円までとの事。それでもありがたく融資を受け開業する事にしました。

すぐ開業してからは診療だけでなくレセプト請求、銀行からの借り入れ、税金の計算、スタッフの給料計算、スタッフ面接、様々な届出、患者様対応等々勤務医時代には想像もしていなかった仕事がありました。それを支えてくれたのが妻です。妻には感謝しても感謝しきれません。

またオープニング時のスタッフも現在2人います。その2人にも最高に感謝しています。その感謝の気持ちを伝えようにも何だか照れくさくて態度にも出ていません。本当に感謝しています。今度折をみて感謝を示そうと思っています。

開業当初資金が足りず妻の実家から500万円借り、建築会社に300万円、看板屋に60万円、歯科材料屋に300万円の支払いを待ってもらいました。

治療チェアー3台、スタッフ4名、設備以上に患者様にたくさん来院して頂き毎回お待たせし予約が取れず、時間通りに診られず、急患対応が出来ず帰ってしまう患者様もおりました。

一日が終わるとほっとし患者様がたくさん来て頂いた事がうれしかったです。またお待たせした患者様や期待に沿う事が出来なかった患者様には申し訳ない気持ちになり反省したり落ち込んだり眠られない日もありました。

治療は丁寧を心がけています。開業する前に体の一部分が腫れた事があり今すぐじゃないけどいつか入院し手術した方がいいと告げられた時がありました。勤務していた歯科医院をやめ開業まで少し時間がありましたのでその期間を利用して手術を受ける事にしました。

その時そこの病院の院長先生が私が退院後歯科医院を開業する話を聞いたらしく私を呼び出し「一人ひとり丁寧に診療する歯医者になりなさい」というアドバイスをしてくれました。それは今でも私の心に染み込んでいます。

そして常に知識、技術の向上と社会人として歯科医師として医院の責任者として成長するために本を読み、講習会に参加し毎年レベルアップしたいと思っています。

小さい頃から図書館、本屋、おもちゃ屋、飲食店、医院や病院、ガソリンスタンド、お店や施設でお店の人や施設の人にとても親切に感じの良い対応をして頂いておりました。

ほとんどが皆やさしく接してくれたのですがごくまれに冷たく対応され心が傷付いた事がありました。そのような経験から私は関わる人を傷つけたくないと深く心に刻んでいました。

高校生の頃3年間経験した寿司屋のアルバイトでは常に笑顔でお客様優先、清潔、テキパキ働く、親方には「はい」の返事は即答、お客様に感謝するという事を学びました。

しかもそうやって働く事により逆にお客様に感謝されしかも給料を頂くという貴重な体験をさせて頂きました。その時のお客様の喜びが自分の喜びにつながる本当に貴重な経験でした。

自分が作る医院は来院される患者様には最高のやさしさで接し決して患者様を傷付ける事がないだけでなく最高に感謝して頂けるようにという思いで作りました。

5年後の夢:鶴岡市の5%(6,500人)の方々に当医院で3ヶ月に1回のメンテナンスを受けて頂きたい。現在は約1%(1,500名)。メンテナンスで受診される患者様は1日108名になります。歯科衛生士が1日10人のメンテナンスを行うとして11名の歯科衛生士が当医院で働く事になります。

自分が70歳まで診療をするとすれば約半分の折り返し。今よりもっともっと歯科医師として技術を向上しまた人間としての心の成長し経営者としてスタッフが一緒になって付いて来てくれるような歯科医師になり地域に必要とされている歯科医師になりたい。

そのような歯科医院を造りたい。患者様の事を心から大切に思いやさしく接する事が出来るスタッフがいるまた地域の方々からそう言って頂けるような歯科医院を造りたい。現在メンテナンスで来院される患者様は全体の30%、これを50%にしたい。

健康診断の結果に問題がなくかつフルマラソンを4時間30分で走られる体力をつけていたい。私自信人間的な成長をしていたい。

10年後の夢:鶴岡市の10%(13,000人)の方々に当医院で3ヶ月に1回のメンテナンスを受けて頂きたい。メンテナンスで受診される患者様は1日216名になります。歯科衛生士が1日10人のメンテナンスを行うとして22名の歯科衛生士が当医院で働く事になります。

1日に来院される患者様のメンテナンス受診率を75%にし治療しなくても良い状態を長く保つようにする。私自信もっともっと人間的な成長をしていたい。

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